どっかでレコメンドされてたバンドを聞いて、吐き出されるまとまりのない憂鬱に苛々しながら


憂鬱は美徳ではないが、
例えば轟音ギターにはそのドロドロした感情すら包括した美しいものを見せてくれる力があったはずだ
心を塞ぐ悲しみや淋しさや苛立ちや殺意も
その音になら綺麗に溶かし込めるものなんだと思っていた


今最近名の現れてきたバンドの音源を聞きながら
「どうしてここでこんな風にシャウトを入れるんだ」
「何でことばがこうも短絡的でセンスを感じられないんだ」
「スマートに音と声を鳴らしたいのか、ノイズの中に感情を混ぜて撃ち出したいのか!?はっきりしないし、かと言ってそれらが両立してる感じもしなくて苛々する!」
とか思ったりしてしまった。


歌い手にはきっと嘘などないのに、私はそれに寄り添えない。
音楽に対して柔軟さを失ってしまったのかもしれない。


悔しいのと苦しいので混乱しながら、高校時代にひたすら聴き倒したイントロにすがりついた。
もう1年近くまともに聞いていなかったのに鮮明に鳴り響いたそれを、私はヘッドホンで蓋をして鼓膜に閉じ込める。


行き場を制限されたノイジーなギターが内側で、血管の壁を伝って全身で、弾けるように何かを伝えるように“響き”渡った。


気が付いたら泣き出していた。
それから自身の変わらない様に、安堵ではなく絶望した。
見識と許容の範囲の狭さ、そうして人と共感しないから私はいつも淋しいのに。
いつまでも社会不適応を許されるはずはない。


今ここで共感したいのにできず、
やっと共感したのは井の中の蛙の過去の自分!
やり切れないから舌を噛み千切ればいいんだ!




音楽の“流れ”ってさ、どこにあってどう変化していくんだろう。私が高校時代好きだった音楽は今高校生の子にはどう響くんだろうなぁ。