笑っていたいんだと


それはある日に聴こえて来た、カップルが交わすにしては、愛のささやきとは随分方向性の違った熱のある会話だった。


「利口に生きようと思ったんだよ。好きなもののために現実的な利益を失うなんて、ばかげてるだろ?やるべきことをこなさなきゃ、何もやっていけない。生命をつないでいけない。本末転倒じゃないか。」
「あなたの言うことは恐らく間違いばかりではない。けど、それは意味を履き違えてる。どうして私たちは現実的な利益を手にしなくてはならないのかと言ったら、それは好きなもののためでしょう?好きなものが現実にあるならば、そしてそれを好きな自身を現実に置いておくならば、確かに想いを果たし保持していくために現実的な利益は必要だわ。けれど、現実的利益そのものを追求するようになったら、それは本物の阿呆よ。死んだ方が多分ましだわ。」
「お前、そんなことを言うと、僕本当に死んじまうぞ。」
「ええどうぞ、止めやしないわ。あなたみたいな枯れ切った眼をして捻くれた顔して生きてる人間なんかがいるから、皆して『この世は苦界だ、もう生きていたくない』なんて言うのよ。ばかみたい。生きているのは自分自身なのよ。あらゆる感情の主体も自分。それを保って行けないようじゃ、わがままも言えないわ。」


「じゃあ、言わなきゃいいんだろ。何にも胸をときめかせないで、つまんない顔して生きて行くとしたって僕の自由じゃないか。」
「そう言って諦めるのも、いい加減飽き飽きじゃないの」
「慣れだよ、慣れ。誰も彼も君みたいに、理想論を掲げて生きて行ける程強くなんかないさ。」
「ああ正論、正論正論、自己防衛論。それこそもう飽き飽きだわ私。あなたって自分の感情に対する愛着はないくせに、そうやって安全な場所にいるつもりで高いところから見下ろしてる気分になってて、そしてそんな自分の方がずっと尊く大事に思ってるんでしょう。それも結構よ、そのままそこから下りて来ないで頂戴。私はそんなのつまらないんだもの。だから飛び降りたのよ、それこそ、死ぬ気で。」
「だから皆が皆、君みたいにキヨブタな気持ちで何事もやってける訳ないだろう。勇気を出せない人間がいるからこそ、君のような妄想系暴走少女が成り立つって、わかってる?」
「それは弱肉強食論よね。確かにそれで説明が付くところもあるわ。でも、幾ら人権保護や民主社会を謳っても、誰も彼もが何かからの保護をずっと受け続けられる訳じゃないのよ。安全な場所はいずれ侵食され消え失せる、奪われてしまう。そこに自己がない限りは、立ち続けることすら難しいのよ。あなたが私を見下ろしている塔の天辺だって、いずれ崩れ去る。そして放り出されたあなたはどうするつもりなの?」
「別に僕は保護されてるなんて思ってない。自立した人間になりたいんだ。そのために、甘えや己の趣味的な満足とか、精神的な充実とかを出来る限り切り捨ててるだけだよ」
「違うわ、あなたのははっきり言って背を向けて逃げてるだけよ。臆病者と何も変わりやしない。」
「臆病者かもしれないさ、ただ、勇敢な臆病者だよ。僕は己が傷付く位なら好きなものを捨てたかったんだ。愛するものなんてあっても仕方ないとわかったんだ。その選択だって、自由なはずだろ?」
「だったらあなた、もっと誇らしげな顔をしなさいよ。しなびた大根の葉っぱのような生き様でみっともないわよ」
「君にそこまでとやかく言われる必要はないよ、そんなの知らないよ」


彼と彼女はそこまで言い終えて、お互いがうっかり席から立ち上がっていたことに気付いてハッとして顔を見合わせた。すとんと腰を元に戻した彼女は済ました顔で冷めたミルクティーをすすり、彼はポケットからマイルドセブンを1本取り出して銜えた。互いが一息吐いたところで、西の空へ日が沈んでしまうのを私は見た。気が付くともうすっかり夜を迎え始める時刻になっている。
窓際の2人もそれに気付いたようだった。彼女はそれを見て、さっきまでの激情はどこへやら、ふっと大変穏やかに笑った。彼もくたびれた瞳をとろんとさせて、ほんの少しだけ安らいだ表情を浮かべた。静寂がしんとその空間を包み、街の外灯がぽつぽつ付いているのを透明なガラスの向こうに認めた。


結局のところ、そうして交わらないまま、私たちは自分で自分のことを考えて行くしかないのだと悟った。そしてそれは本当にきっとどこまでもすれ違い続けるもので、途方もなく孤独であり、そしてそれは皆等しいものなのだと。それだけが皆、等しく持ち得るものなのだと、わかってしまった。


ある日のカフェでの1シーンだった。