嘘を吐く人


綺麗な桃色のグロスがべた付いていた。見た目もべた付いていた。触ってみてもべた付いていた。私は大変それを不快だと思う。手の甲で無理やり擦って落とした。引っ張ったら跡になってとても汚く残った。桃色で汚いだらしない跡を残した私は、直立して対面した鏡に醜く映った。



誰かは泣き喚く振りをして、唄っていた。ダミ声で綺麗なメロディを紡いでいた。私は大変それを不快だと思った。出来ることなら殴り倒してやろうと思った。けれどそんなことをすれば私は報復を受ける。彼の歌声をどんなに私が汚いと思っても、それに心酔している人間がわさりと溢れかえっているのはこの世の事実である。私は私の気に食わないその歌声をぶっ殺してしまいたいと願った時点でもう、そのシンガーの支持者である彼女や彼に迫害を受けることになる。


まるでこの世に存在していること自体が罪のように。
私の生きている命を偽者だというように。


壊れてると彼らは言う。彼らは何度もそう私に向かって言っている。あなたの見解はおかしいと、あなたの考えを理解出来ても受容出来ないとそう言う。とてもいい笑顔で。とてもフレンドリーに彼らは笑ってそう言った。
シンガーは正しくない味方を得ている。そんなシンガーを取り巻く彼らは正しくない同盟を組んでいる。私にはそう映る。そして、それは私の思考が狭いのだと、必死で誰かが説得を続けているのを聞いている。


「あなたは、自我が強過ぎる。そしてあまりに自己中心的だ。他者を殺し過ぎている。もっと世界を見なければならないよ。もっと世界を知らねばならないよ。そして、広い心を持たなきゃ。」


神父様のような顔をして誰かが笑う。とっても優しい笑顔。何も否定しない、何も殺さない、綺麗な血色の丸い頬。寛大な黒い瞳には、そこに全てがあるとでも言いそうだった。
私はそれが本当におっかなくって仕方なかったから、大慌てで逃げた。逃げて逃げて逃げて、躓いて、転んでとっても痛かった。涙が出そうな位に、とてもとても痛かった。とてもとても怖かった。
だから私は化粧を覚えた。流行の桃色のグロスを手に入れた。加減を知らない私はべたべたにそれを塗りたくった。転んで出来た傷が、痛くて痛くて、早くそれを消したくて。私は何も知らない振りを決め込んだ。正しくない人たちと笑うことで忘れた振りをしたかった。やがて私には何も映らなくなった。



今、私は盲目になったはずの両目で、噛み締め過ぎて切れた唇から流れる赤色を見ている。それを桃色のものと同様に引っ張ってみる。桃色のものとそれは、汚いことに代わりはなかった。ただ、べたりとした粘着的な不快感はなく、ずっ、と伸びて喉笛の辺りまで真っ直ぐな線を描いた。


ほっとした。私は私の見るものに嘘など一つもないと気付いた。私はまだ私のままでいることが出来る。鏡の私が一筋も涙を落とさないのを見て確信した。赤色を先に纏った人差し指で、向かい合う己の唇をなぞった。ぼんやり映るその手の甲にはすっかりべとりと桃色のグロスが残っていた。
私は桃色から狂うような赤色へ。愛くるしさを秘めた桃色を殺しながら、グロテスクに印象的に残る赤へ。桃色の死骸は葬られないままだった。それでも私はほっとした。爪先から順番にゆっくり、身体の力を抜いた。
眼を閉じて、出来るだけ鮮やかに赤色を思い浮かべた。そうしてずっと、私が暴発してこの赤色が世界中に飛び散る瞬間のことばかりを考えていた。