ペットボトル大海を渡る

例えば君の部屋の隅に、ごみ収集の曜日をもう何週間も(あるいは何ヶ月も)逃し、溜まり続けたペットボトルのことを考えてみよう。



それは圧縮の限りを尽くしてベコベコに潰して捨てるべきところを、君の惰性によって放置され、そのままの形状で透明のゴミ袋の中に積んである。中身を洗うのも物臭な君なので、中身がやや黒ずんでいたり、酷いものでは内側でカビの生えたものもある。もしゴミ袋の口に少しでも隙間があれば、そこから漏れ出す悪臭のことは想像に容易であろう。



例えば君のその惰性を全て詰め込んだような、ゴミ袋の中でぎゅうぎゅうと存在するペットボトルのことを考えてみるとしたら?





世界の終末が突然訪れる。ノアの大洪水の再来。神は今度こそ人間を一掃しようとする。エゴや欲望にがんじがらめに縛られて、その部分からもう元には戻せぬ程に腐り切ってしまった人間などもう要らないと、怒るままに空模様を黒い雲で塗り潰し続ける。
その雨は何ヶ月も、季節を越えて振り続ける。避難警報が間に合わない。人々は逃げる間もなくあっと声をあげる前に、増水した川の濁流の(あるいは大口を開けて襲い来る津波の)中へ飲まれて行く。悲鳴も嗚咽も聞こえなくなった都心部は時を数えずに太平洋の一部になる。



さて、君はどうしているだろう?日当たりの悪い一階の102号室、六畳一間の部屋の隅には大量の、空っぽの、汚い、ペットボトルのゴミがある。
目前に迫る大水、君は決死の覚悟でペットボトルのいかだを組み立てる。引越しの際に余ったガムテープをぐるぐるに巻いて、冷蔵庫のミネラルウォーター、耳の乾いた食パンとマーガリン(それが君の最後の晩餐となる)、そして気が付くと手にしていたCDプレイヤー(中にはSmashing PumpkinsのCDが入っている、ちなみに借り物だ)だけ持って、君はそのいかだに乗り込む。
空のペットボトルは君を乗せ、上手いことその水流の上でバランスをとる。君は、そこで始めて、ニュースで報道されていたブラウン管越しの惨事ではなく、己の肉眼によって荒れ果てた外の景色を見るだろう。



固いパンの耳にマーガリンを塗りつけ、齧りながら君は流されて行く。
水ぶくれした死骸がぷかりと、あちこちに浮いている。その中の一つと眼が合った。若い、綺麗な(綺麗だった)女性だった。長い黒い髪がゆらゆらと君に向かってうねる。
CDプレイヤーの電池は残量が少なくなっていた。ビリーの声は何となく君の鼓膜を伝って心の方へすっと入って行く。漂いながら、何か眩暈のようなものを感じさせながら、君は視界が揺らぐのを覚えるはずだ。声が、音が、増幅して、君の奥底をぐらぐら揺するはずだ。君は思わず揺れてしまうはずだ。シェイク、シェイク、シェイク、シェイク、シェイク。






揺れているのはペットボトルのいかだだった。気が付けば君は、亡霊に、囲まれている。


「何故、貴様が、生き残るんだ。」


死の国からその真っ青な唇を操って亡霊は君に暴言を吐くだろう。濡れた黒髪はべったりと頭皮に張り付き、暗い空の下でちらちら君に向かって薄い光を乱反射させている。
しかし恐らく君には聴こえていないだろう。君の耳には、ビリー・コーガンの歪んだ歌声と、鼓動にも似たリズムで進むバンドの音のみが届いているのだから。君の視覚は亡霊が、君の聴覚は最早圧倒的に、オルタネィティブ・ミュージックによって支配される。不思議と融和するその状況に、君はついおかしくなって、とうとう最後に大声を立てて笑い出してしまう。ミネラルウォーターでつい酔い潰れてしまう。



じっとりと湿った頬に手をあて、ごしごしと擦る。亡霊たちは不思議そうに君を見ている。
CDはついに電池切れで止まった。君はついに、己の喉で声を上げて唄い出す。何も要らない、君は空のミネラルウォーターのペットボトルを投げ捨てる。未だなお天上から降り注ぐ、神々の怒りを浴びて君は叫び出す。シャウト!シャウト!シャウト!シャウト!シャウト!




亡霊たちはやがて君に興味を失い、冷たく薄暗い、濁った水の中へ戻って行った。君はそっと祈りながら、笑う。微笑んでしまう。
ペットボトルのいかだは、まだ形を成している。憤怒の海を何食わぬ顔で、渡って行く。



朝陽は昇らない。しかし、君はひたすらダミ声で歌を奏で続ける。固いパンの耳を齧っている。