描写?


頭蓋骨の内側に濃霧が張り付いている。僕は感じることが辛かった。僕は感じることができなくなった。僕は感じることができない。
外界に立ち、鈍り果てた神経をどうにか尖らせようと鼓舞するが、その信号が脳味噌に届かない。横断歩道の白黒を踏み違えて、道路の隙間に真っ逆様になるイメージ。イメージを強く念じる。危機感からどうにか呼び起こそうとする。僕の動機が早くなり意識が鮮明になることをひたすら祈りながらイメージに縋る。
効かない。僕には響かない。僕の愛する空模様を見上げる。晴れのち曇天。雲の凹凸や濃淡を目で追うが、しかし僕の心は弾まない。イメージはすっかりしなびている。水の足りない観葉植物。
僕は眼が回り指先から崩れ落ちてしまいそうな気分に陥った。不鮮明なイメージはやがて憂鬱を招き、やっとこころが感じたのは空より重たい鼠色の闇の手触りだった。僕の身体は蝕まれ、こころが蝕まれ、僕の存在する時間と空間をも蝕まれ、現実感はみるみる葬られようとしている。僕は立っていられなくなるような気持ちになって、それはいけない、電車に乗り遅れたら、置き去りにされてしまう、と気付いて、さらに重苦しいものが胸につかえるのを感じて、最終的にとうとう僕は、横断歩道の真ん中で立ち止まってしまった。車の行き交う音が突然増幅され、僕はどっと冷や汗をかく。トラックのエンジンは低く唸りをあげながら僕のすぐ左側で走り去っていく。それが過ぎると横断歩道の上の僕に、ドライバーたちの視線が一斉に集まる。集まっているように感じられて、僕の足はますます凍り付き氷柱が足裏を串刺しにしているような感覚に陥る。
ああ、ああ、考えられない。真っ黒い不安につきまとわれて、僕は指先ひとつ動かせない。濃霧による障害で電気信号のひとつも送信できない。緑のライトが叫ぶように明滅を始める。1、2、3、4、5…


ハッと僕は気付いた。そうだ、前に進むため、感じることができなくても、僕は数えることができる。ほとんど啓示のように降ってきたそれに僕はしがみつき、僕の足裏が持ち上がり地に着くまでを1として、歩数を数え出す。1、2、3、4、5、6、7…
ラクションの耳鳴りが消える頃、僕は自分が彼岸立っていることに気付いた。渡りきったのだ。僕は前に進み、たった7歩の自意識を取り戻したことによって、僕は生き延びた。僕はそれがわかった瞬間、内側から突き上げこみ上げるものを強く強く感じた。びりびりと痺れる、感じ。そう、感じていた。鈍色の濃霧が薄れ、僕の好きな雲の色が、白濁した薄い雲が僕を包む。柔らかい。僕はそれを感じ、足裏を再び浮かせては地に降ろす。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15…
僕は数を数えながら、視界がやがて鮮明になるのを感じ、雲の隙間から光が一筋だけ、落ちるのを見た。それはいつもレーザービームのように僕を刺す。僕の最も愛する空模様。暗い空が段々と白と灰色の濃淡を帯び、やがて白けたスポットからそれは注ぎ込まれる。陽光が。雲は物憂げであたたかく、光は淡いけれど力強い。
僕は数え続ける。足裏をひたすら前へ進める。数を数えながら、空を見て光で眼を焼きながら、111、112、113、114、115、116…517、518、519、520、521、522…988、989、990、991、992、993、994、995、996、997、998、999、1000。1001、1002、1003。1004、1005。1006。


1007歩目で僕の歩数は止まる。電車の入口のすぐ傍の席、青いシートに腰をおろし、僕は背中を丸めて、数を数えながら膝を叩く。1、2、3、4、5、6、7。
電車は窓の外の空を追いながら走り出す。雲はばらばらに千切れてしまい、今や爽やかに薄い水色が君臨している。僕は路上で焼き付けたあの空を瞼の裏に映し出すために目を閉じ、数える。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10…∞。