散々中の思索?-2


快楽の方向性について。ただ「音楽を聴いて楽しくなりたい」という一言にも、人によって“どういう音楽”で“どう楽しくなりたい”かは全く違うのだと思う。例えばダンスロックみたいなノリのいい曲で汗を散らしながら身体的な方面から快楽を追求していくか、ヘッドホンの中でジャムをぐつぐつ煮詰めるように自分の内側でその音を聴き込んで居心地の良さを得るかとか。
同じ曲を聴いてもその違いというのは絶対に人によって違うはずで。その楽しみ方も一見同じなようで各々が感じていることもアプローチも実は違うはずで。皆そのはずで。
「この曲で楽しめない」というのも、やはり“どんな音楽で気持ち良くなりたいのか”ということを考えれば当然のはずだし、その人の音楽を味わうやり方もその曲にそぐわなければ当然のはずだ。
例えばそれは食にも似ている気がする。和食が好きな人もいれば洋食が好きな人もいる。カレーをうどんの喉ごしと共に味わいたい人もいれば、白いご飯にルーを絡めて食べるのが最高だという人もいる。どんな野菜にも絶対マヨネーズじゃなきゃダメって人もいれば、あくまで素材の味を好む人もいる。また皆でわいわい会話を交わしながら食事を楽しむ人もいれば、ひとりでじっくり舌の上に広がる味覚と向き合いたい人だっているように。


ここまで考えてみて、やはり快楽に向かうやり方は絶対に人によって異なると確信した。そしてそれは安易に否定されるべきでも、理解されるべきでもないと。
私たちは、私は、もっと自分の快楽に対して真摯であるべきだ。他者との違いを憂うよりも、まずは自身を充足させることを何よりも優先させなくては。快楽はそのまま生きることにもつながるのだろうから。


生き延びたい、きちんと、僕は。