彼女は空を飛ぶ。


見下ろした高速道路は朱に染まっている。彼女はきっと西日を睨み付けた。突き刺さるような斜陽が彼女に注がれる。しかし彼女は怯まない。彼女の瞳は空より朱い。
枯れ木の隙間を縫って彼女は進む。急な斜面を下りながら、どんどん加速して行く。彼女は靴をはいてはいない。白い足裏に容赦なくからからに乾いた小枝や葉が踏まれ砕かれる。同時に彼女の素足に朱が滲む。それでも彼女の足は駆けることを止めない。
耳元を風が切る音がする。びゅうびゅうとやかましく、彼女の鼓膜に轟音を叩き込む。彼女は昔一度だけ訪れた地下のライブハウスのことを思い出した。赤い照明がレーザービームを思わせ、ひどく畏怖したことを思い出し身を震わせた、ほんの一瞬。しかしあの場所も今頃は焼け落ちたビルの下敷きになってしまったのだろう。安堵した彼女は走り続ける。


彼女の足の筋肉が躍動する。膝を上手く使うことでより高く、高く飛び上がる。
彼女の背よりは高い、コンクリート塀のてっぺんに手がかかる。上半身を引き上げ、そこから踏ん張って何とか足裏を淵に引っ掛ける。
既に空は夜を招き始め、誰かがそっと広げたテーブルクロスのように薄闇が被さっていた。彼女の瞳はまだなお燃え盛っている。
タイミングを外したら一環の終わりだ。彼女は鋭く空気を見つめ、嗅ぎ、味わい、聴き、末端までを使って全身でそれを読み取る。排気ガスが乱すリズムに彼女は惑わされない。たった一時のそれを息を殺して待つ。


それはまず、耳が捕らえた。
誰かのすすり泣きに彼女ははっと意識を引きずられる。
視界は一台の大型バスを見つける。
吐き捨てられた鈍色の煙に息がつまりそうになるが、彼女の指先が、足指の一本一本が、びりびりと痺れ絶叫する。


「「「「「逃すな!!!!!」」」」」


彼女の全身の筋肉は反射的に緊張し、そして全てが無意識的に正しく動作した。
所々に朱が滲んだ足裏は、ゴツゴツした感触から解き放たれ、上昇気流がしっかりとそれを抱き上げる。
彼女は誰かがあっと小さく叫んだのを聴いた。微かな泣き声はもう止んでいた。
音も立てずに、彼女の足裏は冷たい車体の上に着地した。
まずは飲み込んだ呼吸を吐き出し、整えることから彼女は始める。眼球が冷たい風に乾かされ、ほんの少し朱い瞳が潤む。
きゅっと瞼を瞑り涙を払うと、彼女はゆっくり立ち上がる。バスの進行方向に背を向け、後方からの風に髪をなびかせた。彼女に用意されたのは、ほんの十数メートルの滑走路だ。チャンスはやはり一度きりしかないのだ。彼女は自分に言い聞かせ、それに応えて静かに頷く。


宵風が彼女の肩を叩いた。
クラウチングスタートを切って、彼女は飛び出す。


ダッ、ダッ、ダッ、ダダッ、ダッ、ダダダッ、ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ


ダンッ




彼女のその姿は後続のトラックの運転手には見つからなかった。
その瞬間に冷たい風が叩き付けるように彼女に襲いかかったが、しかしそれを妨害することは叶わなかった。
乱気流に揉まれながらも彼女は見事に流れを見切り、両手を広げバランスを取る。
彼女の身体は真冬の空に抱かれ、オリオンの三ツ星を眼前に仰いでいる。
彼女は眩暈にも似た昂揚の中、高らかに雄叫びを挙げた。
寒気が喉に突っ込まれても、彼女のうたは鳴り止まない。止むことを知らない。


彼女は、空を飛んだ。
野生のうたごえが、冬風とともにどこまでも響く。


黒いスクリーンの真ん中に、朱い星が輝き、流れて行った。