表現

私は小説を書くんです、唐突ですが
高校のときは文芸部でした
人数少なかった…つーか3人しかいなかったから(爆)
副部長とかも仕方なくやってました


あの頃ほどじゃないけど、
あの頃みたいな尖がった感じとか、繊細な表現は出来ないけど、
未だに、それこそ駄文を思い出したときによく書いています。
…本当にさぁ、『何コレ下手くそ!』って発狂したくなるようなのを(苦笑)


表現は癒しになり得ると思います。
フロイトの適応の中にも、昇華っていう、
自分の中の満たされない欲求を、
社会的価値に置き換えて果たそうっていうのがあります
社会的価値っていうのは詩とか音楽とかの表現かな、代表的なのだと


個人的に、自分もそれをしたくてしてたんだと思う。
そして、うーん、同じ扱いをするのは何とも微妙なんだけど、
現在活躍されているアーティストの皆さんもそうだと思うんです。
うん、傷は何かの原動力になると思う。それが明確であればあるほど。
人は戦うんですね、その力があればね、きっとね。


もちろんそればっかりが彼等の創作活動の源になっているなんて、
そんな一面的、一方的なことは言いませんけどね。
でも結局は自分を満たすための行為だよなぁと、他人のためではなくて。
人間って何だかんだで、やっぱり自分が可愛いしわがままだしねぇ。


傷を持て余したりするのは、視力が鈍ってしまっている人だと思う
内面へ向ける視力が低下してしまったんじゃないかと。
…後は、こういう言い方はすっごい嫌いなんですが、逃げてしまった人。
そりゃ逃げたくなるよなぁ、普通はって思うから、別に私は否定しない。
実際私がそうだもんね、最近。何にも言えないや。


傷って凄く醜くて、痛々しくて、眼を逸らしたくなってしまうものだけど、
そこと向き合えた人にだけ、ああいう美しく胸を打つ表現が出来るもんじゃないかなぁと。
あぁそういや先輩が好きな作家の人が言ってた言葉があったな。
阿佐田哲也さんて人の『欠陥から切なく生まれるのがパーソナリティだ』って言葉。
あぁなるほどなぁって凄い感動して、そういや携帯のメモ帳に入ってた(笑)


ただ、傷付いている自分が好きっていう、ナルシズムにも陥り易いよね。
高校のときの自分がそうだったんじゃないかと思う。
ナルシズムとか、最近なくなったから、いっぺんに傷付いてる自分に冷めたのかもな。
ある意味、自分とは言わないけど、何かしらに対する愛が必要なのかもね、表現ってね。


傷付いた自分と少なくとも向き合う必要はあるんだろうなぁ、眼を逸らさないで。
そういう醜くて汚い弱い自分を見て、そこから生まれるものはそれぞれだろうけど、
そうして形になったら、表現と呼べるのかもしれない。


いややっぱりわかんないや(苦笑)
所詮は戯言ですよ、たかが18の小娘のね。